あいつはきっと、薔薇を食べて生きている

いきなり弁明から入りますが、昨夜にお酒を召しながら、どうやら上記のタイトルだけを書いた模様で。さあ仕事も切り上げて、今日もせっせこブログでも書くべやとサイトの編集を開いた折に、この事実と向き合うことになり今ちょっと途方に暮れています。誰の事言ってんだよ。すげー気になるよ

昨日の自分に翻弄されるという、あまり見ない大人の状況をセキララに暴露するまあまあ斬新なスタートを切ってしまったので、もう誰もわたしの言うことなんかに信ぴょう性を持ってくれないだろうと予測を立ててみましたが、いかに

1+1=2であるってことを理解したいんです(唐突)

どうしようもない逆境に立たされた時に、なんだか不思議パワーが出て解決しちゃうのは漫画とかアニメの話。実際問題、そんなことないよなーって折り合いをつけてみんな一生懸命生きているわけで

毎日大変、楽じゃあない。弱音吐いたっていいから、歯を食いしばって頑張りましょうと言ってしまえば、何にも中身のない話で終わってしまうのでちょいと食い下がってみましょうか

自分の能力を正確に理解するって、簡単そうで実はすごく難しいことですよね。仕事の能力に限定したとしても、それ自体が割と曖昧な事柄なので人によっては定義が難しい。逆に身体能力としたらもう少し分かりやすくなるけれども、スポーツなりなんなりを続けていないと、それを測るって中々出来ないことだと思う。そもそも指標が無いですからね

戻るけれども、自分の能力を正確に理解出来ていたら、なんて便利なんだろうとちょっと考えてみました。挑戦するって、とてもかっこいいけれども不安な気持ちにもなりますよね。人生経験を詰めばなおさらで、過去の失敗と照らし合わせて敗北を想像すれば、慎重さをもって物事を進められるようになる。それってなんだか、すごく大人って感じ

ゲームをする時、セーブをする回数がとても増えました。子どものころほど自分を妄信出来なくなったから、その分当たり前に努力をするようになりました。大なり小なり挑戦の折に、まずは自分を過小評価して始める癖が付いたんです

1+1=2である。自分の能力では、この結果が出る。これが正確に理解出来ると、こうやって変に悩んだりすることもないのではとふと思ったのですが、結局は気が小さいので、色々余計なことを考えてしまうのだろうということに今気づきました。救われたいッス。自分で溺れといて

明日もよしなに

 

男子は手拭い一枚でなんとかなる

桜吹雪が道路に転がる。アスファルトの凹凸に沿って、飛んだり跳ねたりの大行進。ふとスピードを緩めたくなって、バックミラーを覗くとオーマイ・至近距離。あたし、煽られてる!?

ドライバーの皆さん、安全運転を心掛けましょうという事で

もう先々週になるでしょうか。旅行で沖縄に行って以来、どうにも身体がおかしいと感じる日々が続いておりました。整体に行っても左側が妙に凝っていると言われて、連日背中に痛みまで感じる始末

どげんかせんといかん。どげんかせんといかんね、このままじゃ。とは言っても、出来ることなんて実際高が知れていることを知っている系男子のわたす。素直に神仏にすがってみました。ちなみに霊とかオカルト方面に関しては、あったら(居たら)ロマンだと思っている位の温度です。不思議な話とか大好きですけどね

というわけで今日は愛車のバイクに跨り、349号線を北進して御岩神社に行って参りました。ここは好きな場所で、畏れを感じるというか、境内に入ると明らかに空気が変わるのが分かるんです。毎回なんか居るーって思うんですが、個人の感想なので押し付ける気は勿論ありません。そもそも神さまや霊がいるとかいないとかって話じゃなく、日本人の感覚として、神仏に対しかしこまるのは当たり前の事で

いつも通り何もお頼みせず、頭空っぽにしながら二礼二拍手一礼をプレイしてきました。今まで神さまにお願いしたのって、母の健康くらいで。あんまり自分のことどうって、無いんですよね。思いつかないし、自分のことは自分でやらなきゃ意味がないですし。神頼みって、神さま視点で考えると超迷惑だよなーって思うんですが、それこそ矮小な人間の枠内の考え方であって。村の木々が次々に腐り落ちているのはそう、天狗の仕業なのです。訳知り顔の老人は、大体祟りじゃと喚く。何の話だっけ?

帰りはパラパラと少しだけ雨に打たれましたが、横川温泉に寄って日帰り風呂を浴びたり、旅館でゴルフの団体様のアツい演歌をこそっと聴いたりして平穏無事に帰ってきました。矢切の渡しは中々上手かったよ!(to 知らないおじさん)

いまそうして、机に向かって仕事を始めようとしているのですが。明らかに肩が軽くなっているのは、神さまの粋な計らいか、単にドライブでリフレッシュしたからか。あなたはどちらだと思いますか?

わたしは別にどちらでもいいかな。ぶっちゃけ

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ダジャレではなく、ジャパニーズトラディショナルジョークと言いたまえ

今日はすごい風。連日すごい風。強風も、京都で吹けば京風なのでしょうか。ああなぎ倒され、飛んで行ってしまいそう

木々のしなりも極まると、なんだか恐ろしい様に見えてしまいます。ばっさばっさと枝葉の暴れる様子は、幼少の頃に見た何か恐ろしいものを連想させるようで心がザワザワしてくる。しかし木は、あんなにも曲がってよく折れないものですね。あれが自分ならば天に向けて両手を伸ばした折に(※大文字のYを体で表現するナガトさんを思い浮かべてください)、腕どころか、股関節の上あたりでボッキリいきそうな気がしてしまい恐ろしくなる。自然ってすごいって、そんなまとめでいいのか

さて今日、というかこれは前々から引っかかっていた事柄なのですが、コンビニのトイレによく貼ってある「きれいに使って頂いてありがとうございます」等のコメント。こちらとしては使わせてもらっているという意識なので「なんでっ?」って思うんですけれども、アレを見てどういたしましてとか思う人居るんだろうか。お店側のへりくだりの一種なんでしょうが、なんだかズレてると感じてしまうのはわたしだけ? むしろ嫌味だと思うのは考えすぎですけれども、商売とは言え、何もそこまでと思うことは正直多々あります。過剰にサービスをされると逆に居心地悪くなるしょっみーん(庶民)としては、お客様は神様ですって言われても、いやわたし人ですけれどもと恐縮してしまう。勿論、お店側の言い分もあるんでしょうけどね

話は変わって。空を飛ぶ夢を子供のころはよく見ていたのに、近頃めっきり見なくなりました。車を運転する夢もよく見ていたけれども、免許を取ったら見なくなりました。最近はなんだか、昔の夢ばかり見ている気がします。人生もそろそろ折り返し地点ということでしょうか。唐突に、がんばりましょうという気持ちになりました

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おギターさまが呼んでいる

フェンダーさんにて昨年ロングセラーモデルである「アメリカンスタンダード」がフルモデルチェンジされ、アメリカン・プロフェッシャナルシリーズと一新された事は記憶に新しいですが

詳しい人だったら何をイマ・サラーな(※ドナ・サマーとかけようとして完全に失敗した例)話題でしょうが、ずっとブログ書いてなかったしバンドも産休中で話す相手もいないしで、結構モヤモヤしていたんですよ。ツイッターは語る場所としては文字数少ないですし

細かな変更点なんかはわざわざここで書くことも無いですが、我がことのタイミングとして、一新されたのが10年前に手に入れたフェンダージャパンのストラトキャスターを、邪魔だから友達にあげちゃった辺りだったんです。改造しまくって最早オリジナルパーツはボディとネックくらいになってたやつ。その辺の詳しいところは(個別記事の人は)ホームからカテゴリーの制作物っていうところを漁ればあると思いますが、特に見なくてもいいですよー

人っていつも、無くしてから大事なことに気が付くんですよね。。。。。いつも有ったものが無くなると、つい新しいものが欲しくなっちゃう法則。これは曲解かもしれないけれども

エレキギターが無いんですよ。一昨年くらいからベースを始めまして。それが上記のバンドなのですが、そっちにばかり傾倒していると、急に他のものが疎ましくなるというイノシシ的発想。やつらは人語を話さないので、勝手なイメージを押し付けてもクレームが無いから楽

そうして宙ぶらりんになった時、物欲の扉が開きましたとさ。商品紹介ページでこれは最高だぜ!って弾いているのが、ケニー・ウェイン・シェパードっていうのもなんだかすごくツボ。Live! in Chicagoは名盤です

というわけで毎日、フェンダーの商品ページを眺めてはウットリしている日常を送っている今日ごろごろ。かと言ってバンドはベースとドラムでしか参加していないので、弾く機会は特に無いんです。でもさ、欲しいじゃんギター! 収集癖は基本的に工具しかありませんが、音楽好きにはエレキは特別な憧れだったりするでしょう。あなたもそうですか? わたしはそうです。アメリカン・プロフェッショナルの話全然してねえ

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毎日このストレッチをしてくださいね→了解です!(多分しない)

なんとなく朗らかな風情のする午前。それは明らかに体がおかしいと感じたので車上の人ととなり、朝のラッシュをくそ真面目に運転して整体に向かっていた道すがら。ラジオから萩原朔太郎さんの詩が朗読されてきたことが発端なのでした

何を言っているのか、皆目見当もつかなかったのです

春の実態と銘打つその詩は、試しにううむなどと唸ってみてもふつーの人間たるわたしには理解の及ぶところではなく、不思議な余韻を心に残しながらもただただ言葉のリズムの美しさがお脳の表層をぺろっと撫ぜていくだけでした。なんなんだろうね、詩ってよく分かんない

そうだそうだ、思い出した。わたしは文章方面の才能なぞからっきしなのでした。まあ物を作るということに才能はあまり関係ないというのがわたしの主張なのですが、それは置いておいて

以前小説を書いた折、こんなことがあったのをふと思い出したのです。編集者さんとやり取りをして推敲なりをしてもらっていた時の話なのですが

基本的にこの作業は、文章が紙にプリントアウトされてそこに鉛筆で指示やら提案が書き込まれてくるんですね。それをこちらで処理してデータにして送り、不備があればまた紙で返ってくるという繰り返しなのですが。色々書かれている中にある行を指して、(素晴らしい表現です)と注釈でもなく感想が書き込まれていたんですよ、多分てか確か

自慢したいわけじゃなくて、というか2百何ページの中で褒められてるのそこだけな時点でアレというか。まあ要するにその時、なんで褒められてるのかさっぱり分からなかったんですよ。本気で

今となってはどこを誉められたか覚えてもいないし、そんな褒め甲斐のない人間を相手させられて編集者の方には本当に気の毒だったのですが。なんかそんな感じで、文章に関しては鈍感なところがあるので割と若いうちにそっち方面に見切りをつけていたような記憶があります。じゃあなんで小説出したのという話ですが、あれは当時の自分にとって書くことが必要であったから書いたのですけれども。まあそんな感じで

なんかすごい馬鹿っぽいですが。まあ馬鹿は馬鹿なりに理屈があることを主張すると、人それぞれにタイプはあって。わたしはとりわけ物事をイメージで処理してしまうので、文章表現が苦手だということになるのでしょう。どうやって手を動かしているのか、その感覚を説明しろって言われても出来ないあの感じ。そのジレンマを抱えて、やっと見つけた解決の手段がイラストであったりなんなりなのでは

あ、もしや。そのジレンマを言葉で解決したのが詩というものなのか? いやでも自分は詩が分からんし文章の(以下ループ)

明日もよしなに