それぞれの季節

クーラーの効いた部屋に篭もっていて、たまに外に出ると汗が噴き出してくるのに時間がかかっていることに気づく。夏だ。容赦なく夏だ

夏といえばお祭りで、ビールがたまらなく美味しくて、ジブリ映画の「千と千尋の神隠し」が必ず見たくなる。人によっては夏フェスで、海で、山で、野球でと。10人集まればそれぞれの夏があるのだろう。そういう季節なんだと思う

子供の頃に夏休みはいつも川崎にある親戚の家に長期滞在していた。おじちゃんと一緒に行ったあの銭湯はもう無いらしい。500円玉握りしめて尋ねた駄菓子屋はまだあるだろうか。あの古本屋は

変わっていく事は必ずしも悪いことでは無いはずなんだけど、なんだか寂しい思いがするのは何故なんだろう。慣れ親しんだものが消えるから?思い出は残るじゃないか
そんな当たり前の感情を、じくじくと紐解いて。いつもの様に、今日も答えなど出ないのだ

大団円

つい先日、着物を着て慣れない遠出。目指すは東京。とっておきの小千谷縮
目的は打ち上げなのです。シリーズの装画を担当させて頂いた「猫弁」。一つの物語が幕を閉じたお祝い

著者の大山さんを囲んで、編集の方と、挿絵を担当されていた北極まぐさん。着崩れを直していた為、遅れてきたぼく。少し暗めの温かな照明。盃を上げてカチリと鳴らす。そこに確かに存在している、柔らかな空気。そこから先はぼく達だけの時間だ

絵本の絵というのは特別であると常々思っている。話の筋からはずれるけど、一応繋がるので我慢して読んで頂きたい

ぼくが好きな絵本の絵に、例えばこんなものがある。人の好みは千差万別であるけれども、少なくとも、この絵を見て不快になる人というのはちょっと想像が出来ない

何故だろう何故だろうと無い頭を絞った事があった。それはきっと、邪念が無いからだと自分なりに答えを出した。子どもに見せて、自由に発想をして貰うためには。きっと大人の意図を最小限に留める必要があるのではないだろうか。だからこういう絵が必要なのではないだろうか

論の正誤はこの際問題ではなく、そのような考えに至った結果、ぼくはそれが描きたいと思った。絵本ではなく、絵本の様な絵。それをずっと目指して模索しているというのが根底にひっそりと存在している

そろそろ話を戻しましょう。猫弁全集という沢山の人の善意で出来た本に、ぼくが描かせて頂いたイラストが載っている。それを「絵本かな」と評してくれた方がいた事を、ぼくは終生忘れないであろう

この一文のためにこれだけ文章を重ねてしまう文才の無さが恥ずかしい。なんだか照れくさいので自虐で〆てみました。どっとはらい