毎日このストレッチをしてくださいね→了解です!(多分しない)

なんとなく朗らかな風情のする午前。それは明らかに体がおかしいと感じたので車上の人ととなり、朝のラッシュをくそ真面目に運転して整体に向かっていた道すがら。ラジオから萩原朔太郎さんの詩が朗読されてきたことが発端なのでした

何を言っているのか、皆目見当もつかなかったのです

春の実態と銘打つその詩は、試しにううむなどと唸ってみてもふつーの人間たるわたしには理解の及ぶところではなく、不思議な余韻を心に残しながらもただただ言葉のリズムの美しさがお脳の表層をぺろっと撫ぜていくだけでした。なんなんだろうね、詩ってよく分かんない

そうだそうだ、思い出した。わたしは文章方面の才能なぞからっきしなのでした。まあ物を作るということに才能はあまり関係ないというのがわたしの主張なのですが、それは置いておいて

以前小説を書いた折、こんなことがあったのをふと思い出したのです。編集者さんとやり取りをして推敲なりをしてもらっていた時の話なのですが

基本的にこの作業は、文章が紙にプリントアウトされてそこに鉛筆で指示やら提案が書き込まれてくるんですね。それをこちらで処理してデータにして送り、不備があればまた紙で返ってくるという繰り返しなのですが。色々書かれている中にある行を指して、(素晴らしい表現です)と注釈でもなく感想が書き込まれていたんですよ、多分てか確か

自慢したいわけじゃなくて、というか2百何ページの中で褒められてるのそこだけな時点でアレというか。まあ要するにその時、なんで褒められてるのかさっぱり分からなかったんですよ。本気で

今となってはどこを誉められたか覚えてもいないし、そんな褒め甲斐のない人間を相手させられて編集者の方には本当に気の毒だったのですが。なんかそんな感じで、文章に関しては鈍感なところがあるので割と若いうちにそっち方面に見切りをつけていたような記憶があります。じゃあなんで小説出したのという話ですが、あれは当時の自分にとって書くことが必要であったから書いたのですけれども。まあそんな感じで

なんかすごい馬鹿っぽいですが。まあ馬鹿は馬鹿なりに理屈があることを主張すると、人それぞれにタイプはあって。わたしはとりわけ物事をイメージで処理してしまうので、文章表現が苦手だということになるのでしょう。どうやって手を動かしているのか、その感覚を説明しろって言われても出来ないあの感じ。そのジレンマを抱えて、やっと見つけた解決の手段がイラストであったりなんなりなのでは

あ、もしや。そのジレンマを言葉で解決したのが詩というものなのか? いやでも自分は詩が分からんし文章の(以下ループ)

明日もよしなに

 

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